旧暦8月1日と2日の両日にかけて鹿児島郡硫黄島・硫黄権現(熊野神社)に奉納した後、集落の各所を踊ってまわります。
矢旗を背負い、鉦叩きと称される唄い手とそれを囲む十名の若者たちが太鼓を叩きながら掛け声とともに踊る勇壮な伝統行事です。
にぎやかに踊り終わったところで、仮面神「メンドン」が現れ、手にした神木で暴れ回り悪霊を祓います。
薩摩硫黄島のメンドンが国指定重要無形民俗文化財に指定、また平成30年11月には、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
毎年旧暦の8月1日から二日間、鹿児島郡硫黄島の熊野神社に奉納される「硫黄島八朔太鼓踊り」に登場する仮面神「メンドン」。
メンドンは天下御免で、その様子は南方系の特徴を残しており、手に持っているスッベン木の枝で観客を叩きます。叩かれると魔が祓われると言われています。
昭和38年、鹿児島県文化財調査報告書「第十集」には、村田煕氏が次のように報告している。
由来ははっきりしないが、古老の話によると「慶長三年、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した時、島津義弘に従って硫黄島からも従軍したのが旧家、長濱吉延と岩切、芥川(ちりきり)の三人であった。泗川の戦いで島津が敵にとりかこまれ窮地に陥ったので、これをみた吉延が敵中におどりこんで太刀をふりかざして敵を追いちらし、藩主を助けて戦功をたて、凱旋ののち、藩主から恩賞を賜り、大いに面目をほどこしたので、その凱旋祝いとしてこの踊りを奉納るすようになった」ということである。
踊りは鉦(かね)をもった歌い手2、3人と踊り子10人ぐらいで構成されている。歌い手は紋付のひとえを着て、肩から色物の肩掛けをたらし、頭には花笠をかぶっている。足は白足袋、草履をはく。左手に鉦をもち、右手にキヅチをもって、主として、歌いながら円陣の中で踊る。鉦には小ガネと大ガネがある。踊り子は頭に鉢巻をし、白の浴衣、同じ生地のズボンを着て、キャハンをつける。
足は素足である。背中には高い矢旗(やばた)を背負い、胸高に太鼓をだいている。
この踊りについた特異なものとして「メン」がある。メンはテゴ(竹篭)を利用してこしらえたもので、鬼をかたどったものらしい。当日はチグサをのせて神社の前に奉納しておき、かぶる時はその上に笹や木の枝をのせる。カゴの下は切ってワラでふちをつけてあるのでちょうど、面の鼻の下から、そとが見えるようになっている。「メン」をつくるのは14歳の子どもで。かぶるのは踊りに出ない二才(にせ)である。メン作りに出ない時は金を出すことになっている。身体には蓑をつけ、手は手袋で被い、誰かわからないようにする。「メン」は神社の拝殿の横に待機していて、踊り組が三回ミッチキをしたところで走って出て来る。はじめに出るのは「一番メン」である、これは一番早く生まれたものの中から選ばれる。そして、これが踊り子と一緒に円陣の外側を三回まわると、後は次々にほかの「メン」が出て来て、見物人を追いかけたりしてあばれる。このほかに子供たちの「メン」も出てくる。これは「ツラカクシ」といって、紙製のメンをかぶり、両手に笹やシバをもっている。
この踊りは八月朔日と二日の2日間で、いずれも硫黄権現に奉納され後は各所を踊って回る。練習は二週間も前から、庄屋跡と呼ばれる旧家の庭で行う。二才組は35歳のものが「ニセガシタ」で、25歳から34歳までが「ニセ」、15歳から24歳までが「コニセ」である。
踊りの当日、初め太夫(神官)が祭りを行い、それがすんでから、太夫は鳥居の上座に座席をとり、来賓と一緒にオミキをいただきながら踊りを見る。踊り手は潮水で身を清めた後、庄屋跡で準備をして待機している。祭りが終わった合図があると、鉦打を先頭に踊り子が一列にならび、「ミッチ」といって鉦の楽に合せて踊りながら、鳥居前の馬場にくりこんでくる。そこで、三回「ミッチ」をしてから円陣となる。
踊りは大体、歌に合わせて踊られるが、(1)マンボウタタキ(2)ナエコミ(3)カタッポタタキの三つを繰り返すわけである。
「マンボウタタキ」は太鼓を両方たたいて踊るもので、この時、(1)の歌がうたわれる。しかしこの歌は権現様と庄屋のところだけ各所を回る時は歌わないことになっている。
「ナエコミ」は踊り子が両手をひろげて、円陣の中にふみこむもので、この時は(2)の歌が歌われる。
「カタッポタタキ」は、はじめ片方だけで太鼓をたたくが、途中で「ナエコミ」になる。この時は(3)の歌が歌われる。その後、同じように(4)、(5)、(6)の歌をうたい「カタッポタタキ」が終わると、「ミッチ」を三回して、(7)、(8)、(9)を、つづいて(10)、(11)、(12)と踊って全部を終わることになる。すると、また、「ミッチ」を三回して、最後に「ウッコンセンガシラ」というものをする。これは、権現様の前でしかやらないもので、一日一回のものである。「ウッコンセンカシラ」は円陣のまま、太鼓と鉦だけで激しく踊るもので、最後だけ「ヤアアー ハラヨイヨイ」とハヤシをかける。
こうして神社での踊りがすむと、第一日目は庄屋跡→太夫長濱家→菊池家(登る羽山をまつる)→モロコシドン→北山ドンという順序で踊り、後、集落を回って踊る。庄屋跡では(1)から(11)までの歌は踊るが「ウッコンセンガシラ」と(12)の歌「佐渡と越後」の踊りはやらない。長濱家では「マンボタタキ」の(7)の歌「音にきこえし」をはじめに踊り、後は三つぐらい踊る。ここは「ナエコミ」と「マンボタタキ」が主である。
菊池家では「カタッポタタキ」の(9)の「われは備前のさびかたな」の歌を最初に踊り、後は三つぐらい踊る。この時は踊り子が「ニセ」から「コニセ」に入れかわる。そして、「コニセ」は太鼓だけで矢旗をつけない。
モロコシドンと北山ドンでは、いずれも「マンボタタキ」の(4)の歌「これのお寺に詣りて」の歌をはじめにおどり、後三つぐらい踊る。こうして、一通り踊った後は鉦打の家や小さな神々を回って祈願して歩く。
二日目は「ニセ」だけで踊るが、一日目と同じコースで踊りをして、最後はずっと海岸へ出た時、たたき出して終わることになっている。
以上が25年前の報告であるが、現在は人口激減のため、鉦を持った歌い手は一人で、踊りの組みも一組である。
服装や練習、踊り方などは以前とほとんど変わっていないが、今は硫黄権現の宮之馬場だけで踊り、太夫家、菊池家では踊らない。
第一日目は庄屋家で勢揃いをし、庭を三回まわって「ミッチキ」をしたあと、「ミッチキ」で宮之馬場へくり出し奉納踊りをする。
踊りのあと「ミッチキ」で庄屋家へ帰り解散するが、踊り子たちは踊り衣装のまま、家が同方向の者数人ずつで列をつくり、太鼓をたたきながら帰って行き、それぞれの家の前で列を離れるのである。
第二日目は、各自服装を整えて庄屋家へ集まり第一日目と同様にして宮之馬場で踊りを奉納する。踊りが終ると、境内に設けられた座につき、ごちそうを頂いて一休みする。
この後、夕暮れを待って、鉦を先頭に一列になり太鼓をたたきながら島回りをする。島回りはモロコシドン、北山ドンの前を通って集落中を巡り、海岸に出て、「タタキ出し」をする。「タタキ出し」は太夫家下、硫黄権現下、役場出張所下の、三カ所の海岸で鉦、太鼓を打ち鳴らして行う。これは島回りをしながら島中の悪霊を集めて海へ捨てるのだという。
なお「メン」について付言すると、メンは島で元服という14歳になった男児の家で作って出している。メンはテゴ(竹籠)を逆さにして、小さく割った大名竹を使い、大きな耳、鼻・目・まゆ、ケン(一本角)の形を作りつけ、それに紙を張り重ねる。メンには、昔は、船底の防腐剤(チャン)を塗って真っ黒にし、その上にレンガを砕いて作った絵具で、耳・まゆ・は渦巻模様、その他は格子柄に文様をつけた。県黎明館には実物が展示してある。
メンは、手に「スッベン木」の柴を持ち、見物人をたたいて厄を払ってまわる。メンは「天下御免」で、メンに逆らうことは許されない。また、メンの中に誰が入っているかを、詮索することも出来ないものである。
「天下御免」のメンは、踊りが終ったあとも夜おそくまで集落を走り回ったり、家の中に入ったりして婦女子を恐しがらせていたそうである。