孔雀闊歩し、活火山のエネルギーあふれる、平家ゆかりの歴史薫る島
三つの島の真ん中に位置し、白煙噴く硫黄岳を抱く硫黄島は、火山のエネルギーに満ち、自然の雄々しさを感じさせる島です。霧島火山帯に沿って噴出した海底火山の一つである硫黄島は、鬼界カルデラの中央火口丘に当たり、絶え間なく湧出する様々な温泉により七色に染まった海岸線が神秘的な趣です。野趣あふれる海岸の露天風呂も火山からの贈り物。島を闊歩する野生化した孔雀の姿も、生命力にあふれています。
かつて俊寛が流刑された鬼界ヶ島はこの硫黄島とされ、俊寛ゆかりの史跡も多数見られます。平成8年には中村勘九郎丈によって、世界史上初、史実の地での歌舞伎公演「俊寛」が披露されました。また壇ノ浦の海中に果てたとされる安徳天皇が落ち延びた地といわれ、その史実を示す史跡、史料も多数存在しています。
周囲 | 19.1km |
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面積 | 11.74km2 |
人口 | 121人 (2019年8月1日現在) |
硫黄島は、竹島から約30分で到着します。
3つの島の中心に位置し、周囲14.5km、面積11.7km2、椿、つつじ、車輪梅の原生林や、道路まで放し飼いの孔雀が散歩する、のどかな風景が見られる島です。
畜産と漁業を主な産業とし、温泉や名所旧跡など豊富な資源を生かした観光も盛んな島で、島の北東部には、現在も盛んに噴煙をあげる活火山、硫黄岳(703m)がそびえ、名前のとおり岩肌一面に硫黄を噴出しています。また、島のいたる所から温泉が湧き、流れ出た温泉と硫黄が黄緑色や赤色に海の色を染め、海岸沿いに湧き出た露天風呂は、皮膚病に絶大な効果のある、日本名湯百選にも選ばれる名泉です。
昭和48年10月、ヤマハ楽器の関連会社による海洋リゾート整備の一環として、滑走路600mの飛行場が建設され、その翌年の4月には同社のリゾートホテルがオープン、リゾートブームの一時代を画しましたが、昭和58年4月、経営不振から飛行場、ホテルとも閉鎖。その後、平成6年4月、村は同社から飛行場を取得し日本初の村営飛行場として開港しました。現在は鹿児島空港より週2便、運行三島村へのアクセスしています。
また、明治以来、地元唯一の経済の支えであった硫黄鉱山が、硫黄の需要減から昭和39年に閉山になり、大規模な人口流失とともに経済に大きな打撃を受けました。
昭和55年から南島オパール(株)によるオパール硅石(セラミック・ガラスの原料)の採掘が始められ、最盛期には年間5万トン、約3億円の生産額をあげていましたが、現在は外国からの安価な輸入品が増加したことによる価格の暴落が原因で工場は閉鎖されたままです。
硫黄岳を背景に、白波うち寄せる岩場にわき出した温泉は、野趣あふれる露天風呂で全国の秘湯ファンの人気を集めている。泉質は硫黄ミョウバン泉で、皮膚病などによい。港から徒歩で40分~1時間、無料。
島の南西部にある永良部崎の公園。周囲はシャリンバイ、ツバキの自生地で、近辺の海はイシダイ、ヒラスなどのフィッシングポイントです。公園からは、晴れると正面には屋久島、口永良部島、そして種子島の島影を望むことが出来ます。
島の北の海岸沿いにある、潮まかせの野趣あふれる温泉です。干潮時には、かなり熱めの湯が湧きだしていますが、満潮時には囲いの切れ目から海水が入り込んで天然の温水プールに。無料。
穴之浜温泉/冒険ランド/矢筈山/硫黄岳/稲村岳
八朔太鼓踊り由来ははっきりしない。古老の話によると「慶長3年(1598)豊臣秀吉が朝鮮出兵の時、島津義弘公に従い、硫黄島から長吉延、岩切、芥切の3人が従軍し、泗川の戦いで窮地に落ち込んだ義弘公を助けて戦功をたてた。これにより恩賞を賜り大いに面目を施したので、その凱旋祝としてこの踊りを奉納するようになった」という。踊りは、毎年旧暦8月1日と2日の両日にかけて熊野神社に奉納した後、集落の各所を踊ってまわる。
九月踊りこの踊りは、面踊り・相撲踊り・大名行列・長刀踊り・弓矢踊りの5種からなる。昔は、旧暦8月1日に奉納していたが、現在は9月1日になっている。この5種の中で特徴的なものが「面踊り」で由来ははっきりしないが、子孫繁栄と五穀豊饒を祈る踊りといわれている。
黒木御所跡安徳帝の御所を黒木御所と呼ぶことにした。この周囲を屋敷割りして重臣たちが住み、御所を守護していたと伝えられている。御所跡は長濱氏の邸に一段と高く残っている。
俊寛堂治承元年(1117)平清盛は、鹿ケ谷荘(鹿の谷荘)での平氏打倒の陰謀を知り、平判官康頼、丹波少将成経、大僧都俊寛を鬼界ヶ島(今の硫黄島)に流刑する。翌年、中宮徳子の安産祈願のための大赦により、康頼、成経の2人は赦免されたが、俊寛だけは許されなかった。俊寛は、治承3年(1179)37歳で亡くなった。島の人々は、俊寛の死を哀れみ、3人を合わせて祭り、俊寛の居住跡に御祈神社を建てた。これを俊寛堂という。
熊野神社硫黄大権現宮とも呼ばれ、安徳帝晩年の皇居跡とも伝えられている。治承元年(1117)鹿ヶ谷荘での平氏打倒の陰謀を知った平清盛は、藤原成経、平判官康頼、大僧都俊寛の3人を鬼界ヶ島(今の硫黄島)に流刑された。成経と康頼は早く許されて都に帰れるようにと紀州熊野三所権現を勧請してここに祭った。後に文治元年(1185)安徳帝が居住されてから、来真三種権現(くまさんしゅごんげん)と改められ、三種の神器を内陣に祭られた。
安徳天皇墓所文治元年(1185)3月25日、長門壇の浦における源平の一大決戦で平家は滅び去った。このとき、二位の尼に抱かれて入水したはずの安徳帝が硫黄島に逃げのび、しかも後年、資盛の娘櫛匣の局をお后として隆盛親王が誕生した。その子孫が現在の長濱家であると言われている。寛元元年(1243)66歳で生涯を閉じた。(「三島村誌」)68歳でなくなった。(「鹿児島の湊と薩南諸島」)
天授の板碑竿石の高さ1.15m、横0.25m。将棋の駒型をしている。上部に刻み目があり、正面中央に金剛界大日如来を表す梵字が見事に彫られている。島の人は梵字を「読めない花文字」といい、この碑を「いぼの神様」と称して、初水を持っていって供え、いぼが無くなるように祈っている。この板碑は、長濱家十代権之助吉近が父九代権太左衛門吉壽のために、供養碑として建てたものと思われる。
硫黄島盆踊り(含柱松)古い時代から、人々の霊を慰めるために踊ってきたと思われるが、現在は俊寛の霊を慰めるための柱松行事と一緒にしている。柱松は、高さ16mと8mの2束。枯れた大名竹を束ねたものである。8月15日の夜、この2束に火がついて燃え始めると盆踊りの始まりとなる。