三島村総合観光パンフレット
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!伝統文化行事ul WonderfSmall isMISHIMAMURA竹島旧正月12·22日竹島8月15日竹島旧8月1 ·2日硫黄島旧8月1 ·2日硫黄島8月15日硫黄島旧9月10·11日黒島 (大里)旧8月1 ·2日黒島 8月15日(大里)黒島 (大里)9月1日 (旧8月1 ·2日)黒島 (片泊)8月15日黒島 (片泊)旧9月14日古来、疱瘡で死ぬ人が多く寛政5年は特にひどかった。そのため、疱瘡の神を和らげて疱瘡を流行らせないように、翌6年から本踊りを奉納したと言われている。踊りは聖神社境内で拝殿正面に踊場を設けて踊られる。当日太夫の家に祀られているお伊勢様を聖神社の小さな祠に移す。このとき、はかま姿で御幣を捧げた太夫が先頭に立ち、供物を持つ社家、東西棒をもった旦那、すそ模様に陣羽織をきたジンガメ(歌い手)、白い浴衣に博多帯を締めて背に脇差を差した踊子2人、着物に羽織を着てオハグロをつけ化粧をした踊子数人が後に続く。踊りは前述の婦人が踊る。 「馬万踊り」は旦那が、「めでたい」は踊り子総出、「神はお伊勢J は4人で踊る。馬方踊り盆踊り旧7月14日、15日の盆の夜、男だけで寺と新盆の家々を浴衣姿で踊って回る。8月踊りとも豊祭踊りともいう。両日にかけて聖神社、ガラン殿、太夫家、旧庄屋家を太郎御前様の歌を歌い踊って回る。花笠をつけた鉦打1人に小太鼓を胸に抱いた踊子15人くらいで踊る。最近は別に踊っていたコレラ踊りも 一 緒に踊るようになった。八朔踊りの時、高面という面をつけ、全身に萱の蓑をまとった青年たちが、子供たちを追いかけたり、好きな娘を家の中まで追い込んだりしたが、今は、神社で太鼓踊りについて回る。八朔踊り硫黄大権現、北山権現、若宮様、菊池神、モロコシ神のお祭り。この祭りは太夫がお神楽を奉ずるのみである。神前でお神楽が終わってから踊りに移る。青年が太鼓踊りを硫黄大権現に奉納する。人々は業を休んで参詣し社前でこれを見学する。踊る人の服装は短い浴衣にバッチを穿き角帯しめ脚半をつける。頭は後ろ鉢巻をする。足は素足で背には高い矢幡を背負い胸高に太鼓を抱いている。鉦を打つ人だけが赤襷をかけ、歌を歌う。太鼓を打つ人は20~30歳くらいの青年で10人。鉦打つ人は50歳くらいの初老の人2人である。八朔踊りの時高面という面をつけ全身に萱の蓑をまとった 「メン」(青年たち)が、神社で太鼓踊りに入っていったり、見物人を追い掛け回して暴れる。八朔踊り (太鼓踊り)枯竹を伐ってきて俊寛燈篭(基部5尺、先端に従って細く全長9尋3尺)を作って海岸の浜に立てる。竹の束の松明で頂上は笠を逆さまにした形で開いている。青年多数が杉丸太などで四方八方から支柱を付けながら高く垂直に立てる。やがて、宵となり定刻に太夫の祈祷の後、青年たちはコエ松材を削った小さい松明に火をつけて燈篭の笠の開いたところをめがけて投げ上げる。うまく載ると枯竹に燃え移り猛烈な火勢で燃え盛る。こうして、悛寛様の霊を慰める。巨火は益々勢いづいて次第に下万に燃え下がる。実に壮観で遠く口永良部島からも望見し得るという。この燈篭の由来は、俊寛僧都在世の頃、7月15日の夜には火をたいて島に異変の無いように神仏を祀られたことに習ったもので、この燈簑を燃やさないと島に何か異変があると言い伝えている。夜は盆踊りがある。柱松(はしたまつ)婦人たちが硫黄大権現の社前で踊る。以前は北山権現若宮様、俊寛様でも奉納された。出場の婦人たちは花笠、杖、扇などを持って舞踊するので 「笠踊り」ともいう。参加するのは大抵若い婦人である。服装はまず頭髪から異なって、中古の都風に結い、衣装は美々しく着飾る。多くは友禅の美しい長袖に帯を胸高に結び、足は白足袋に表付きの下駄をはく。3組あってかわるがわる1組が中央にでて踊る。踊る組は一斉に、或いは2列に分かれて、問答式に或いは交互に立ったり低くなったりして歌いながら踊る。踊らぬ組は幕の中に休みながら見学する。わが国固有の舞踊が絶海の孤島に残っていることは興味深い。9月踊り (奉納踊り)数十人が半裸にひとしいボロをまとい縄の帯を締め頭にはシュロの皮をかぶり、その上に鬼、ヒョットコ、オカメ、河重などの面をかぶる。面は粘土で作り頭にかぶる籠は竹で輪を作りこれに紙を張ったものである。顔や手足など見えるところは墨かヘグロをぬる。手に荒削りのスリコギとシャモジをもち腰にひょうたんをぶらさげる。はじめT字形になって出てくる。はいながら 「ヒョウヒョウ」と叫ぷ。やがて2列になって歌に合わせて踊る。一通りすると今度は向き合って踊り、交互に1人ずつ中央に出て踊る。あとは入り乱れて面踊りの歌にあわせ面白おかしく踊る。手にもつスリコギとシャモジ、それにひょうたんは生産を表し、子孫繁栄と五穀豊作を祈る。南方伝来の匂いをもつ踊りである。黒島面踊り毎年、旧暦7月15日のお盆に黒尾神社境内で、旧暦8月1日は八朔踊りとして太夫宅で、古くから踊り継がれていた。江戸時代半ば一時中断していたが、黒島にコレラが流行し多くの死人が出た。このとき巫女の「コレラの流行は昔から神々に奉納していた踊りをしないための祟りである」と占ったので、踊りを復興し、黒尾神社に奉納した。長刀踊りは雅楽の舞で見られるような優雅さがあり、歌詞も古く難解な詞も多いが色歌で掛言葉が多く、踵を先に地面につける踊り方は南方的な古い踊りの型ではないかといわれている。弓矢踊り、太鼓踊りは江戸初期における薩摩の戦勝を祝うための勇壮な踊りで、軍記物の舞踊化に特色がある。面踊りは子孫繁昌と五穀の実り、生産を祈る踊りで手にもつスリコギとシャモジ、腰のひょうたんは共に生産と性器を意味している。弔い踊り、大名行列、相撲誦りなども踊られる。盆踊り八朔踊り始めに男の笠踊りが神社で踊られる。これを 「ばばならし」といっている。神の前の馬場で踊られるからである。これがすまないと太鼓踊りは出来ないといわれている。 「ばばならし」は供養踊りの時と同じ人が踊る。「ぱばならし」のあと 「堂の前」の下に集合しそこで杯をいただき支度をして太鼓踊りになる。太鼓踊りの構成は「カネ」「ナカダイコ」 「ジュウテ」「ヘヤ」からなる。「カネ」は2人で女装をし、帯は太鼓に結ぶ。頭には花笠をかぶ り草履をはく。「カネ」にはオオガネとコガネがあり、紐を手に巻いて下げているが踊りのときは、カネの裏側に4本指を入れて手のひらに載せて打つ。カネを叩く棒は 「シメ」といい桜、桃などの柔らかい木で作る。「ナカダイコ」は1人で紋付、袴に草履を屈き直径30センチの太鼓を胸にだき襷をかける。両手に木のブチを持つ。背中には「くの字型」に曲がった芭蕉の葉のような幅広の矢幡を背負い鉢巻をしている。 「ジュウテ」は8人で踊り衣装を着て手拭いを頭にかけて垂らし、紙製のヘイを手に持っている。 「ヘヤ」も8人で浴衣に横鉢巻、わらじをはいて直径40センチの太鼓を胸にいだく。ブチは人差し指と中指にはさんで踊りながら太鼓をうつ。また、細長い竹に三角の小旗のような紙を3センチ間隔ぐらいにつけた矢旗3本をカレコのように組んで背負っている。年齢により役が決まっている。笠踊り、供養踊り、疱瘡踊りなどが一緒に踊られる。盆踊り (太鼓踊り)黒尾神社境内の神前に祭壇を設ける。祭壇には御幣、お神酒、花米、白餅などを供える。踊場にはムシロを敷き詰め、祭壇に向かって左側こ立ボコを立て船の帆で壁を作る。踊る人は、宮ガラス2人、踊り手の若組、年寄組で太夫の家で踊り衣装の準備をしてから黒尾神社に行き祭りが始まる。まず、神前で太夫が疱瘡の祈願を行い、その後はだしの若組が「思い立ち」や「高きや」を踊る。若組が終わると年寄組が「めでたい」を踊る。踊り衣装は若組は昔の踊りの着物を着るが年寄組は女用踊いベンジョウ(踊着物)を着る。疱瘡踊り (9月踊り)島 名月  日名 称概 要40

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