三島村総合観光パンフレット
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源平時代の確かな名残ul! WonderfSmall isMISHIMAMURAHISTORY安徳天皇御陵硫黄島に逃げ落ちたとされる安徳帝の墓所は、子孫である長濵家によって臣下の墓とともに大切に祀られています。三島村にまつわる記録は「日本書紀」に初めて登場し、古くからの言い伝えも様々。中でも平家の落人伝説「安徳天皇」や、歌舞伎や能の演目として硫黄島でも上演された「俊寛」は特によく知られています。それに限らず、村指定文化財をはじめ村内に点在する史跡は様々な時代の歴史を知るヒントとして、今も研究者や村民有志による調査が続いています。俊寛堂島の人たちは俊寛の生涯を哀れみ、俊寛が行き来した川原に墓を建て、のちに彼の住まいの跡に墓を移転し、俊寛堂として祀りました。黒木御所跡安徳帝の御所。周囲を重臣たちが住んで守護していたと言われています。現在は三島村の歴史・文化資料の展示施設として整備されました。石斧黒島は縄文早期〜中期にかけて三島のうちで最も早く人が住み始めたとされています。俊寛像平成7年5月に建立され、除幕式に招かれた故中村勘三郎丈(当時 中村勘九郎)の熱意で平成8年には三島村歌舞伎「俊寛」が硫黄島港の浜辺で上演されました。伝説の島、そして潮騒の白波寄せる砂浜、断崖絶壁を背にした砂の舞台は世界初の野外歌舞伎として広く報道されました。大里の大墓墓石群の規模が大きく、カブセ石を使うなど昔の葬制が残る貴重な史料です。治承元年(1177年)に平家打倒を謀ったとして俊寛が流刑となったのが当時鬼界ヶ島と呼ばれた硫黄島。粗末な庵を結びひとり住んでいましたが2年後、失意のうちに37歳で亡くなったと伝えられています。また、壇ノ浦の戦いで崩御したとされる安徳天皇は、硫黄島へ逃げ余生を送ったと言われています。硫黄島にはこれらの伝説とともに史跡が各所に残っています。イバドンの墓平家追討に遣わされた大庭三郎家政は、討伐後も黒島に残り生涯を送りました。投筆の岩硫黄島の断崖絶壁・矢筈岳の一角に俊寛が筆を投げて書いたと言われる梵字に似た岩のくぼみがあります。六地蔵仏教において死後の世界を救うと言われており、1584年に竹島では各家の円満を願い建立されました。10島で語り継がれる歴史歴 史

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